叶った願い /「未来日記」の話

ここまで4回にわたって,わたしの中に植え込まれた「夢は叶わない」思考について書きました

その1 その2 その3 その4

習えなかったバレエやピアノ、買ってもらえなかったテニスラケット

でも、子どもの頃を思い出していたら
叶った願いもあることも浮かんできたのです

小学校6年の時、日光で2泊3日の移動教室がありました
当時コダックから出ていた「ポケットカメラ」がほしいか訊かれて
ほしいと言ったら買ってもらえたのです

これはわたしのものではなくて
2つ下の弟も使うし
カメラ好きの父も使うし…ということもあったのかもしれません

町なかで小学生向けの英語教室の看板を見かけて
英語を勉強してみたいと言ったら
通わせてくれたことも思い出しました

中学2年の夏休みの林間学校
修学旅行と違って希望者だけが行く形で
もちろんその分お金もかかるのですが
これも行かせてもらえました

何もかもが叶えられなかったわけではないのでした

なぜバレエはダメで英語はよかったのか…

バレエもピアノも日舞も発表会があります

毎月少しずつの出費は出来ても
“発表会”のような出費は当時の家計では厳しかったのかもしれません

わたしが小学生の間に、祖父の店で働いていた父は祖父とうまくいかず店を辞めて
伯父の工場で働き始めていろいろな状況が変わったのかもしれません

思い出せないだけで、もっと幼い頃にも叶った願いはあったのかもしれません

母とはわたしが20代の頃から様々な点でうまくいかなくなり
(遅い反抗期?)
一人暮らしを始めてからは、年に数回会う程度であまり会話もしなくなりました

父は10年以上前に亡くなり、今では母も認知症が進んでいて会話がかみ合いません

わたしがどんな子どもだったのか
母はどんな思いでわたしを育ててくれたのか
尋ねてみても答えは返ってきません

教師にならなかったときや
実家を出て一人暮らしをすると伝えたときや
会社を辞めるといったとき
母はどんな風に感じたんでしょう

少なくとも責めたり反対することはありませんでした

いわゆる「適齢期」(これは昭和の遺物?)を過ぎても結婚する気配も無く
まして孫を抱かせられる見込みも無く
そんな30代、40代のわたしをせっつくこともあまりありませんでした

そんな娘をどんな気持ちで見ていたのでしょう

母がおそらく夢見ていた、「娘が教師になりいい人と出会って結婚して可愛い孫を抱かせてくれる」夢

わたしは叶えることができませんでした

でも、きっと母の心の一番根っこにあったはずの「娘が幸せに暮らす」という夢は叶っています

今の母はいろいろなことを忘れているだけでなく、顔を合わせるとネガティブな感情をぶつけてくることが多く、穏やかに会話できることが少ないのですが、ほんのひとときでも心穏やかに昔のことを語り合ったり感謝を伝えられる時間が訪れてほしい…

この夢が叶いますように…

初節句

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