小津安二郎  自分を、自分の芸術を信じた“トウフ屋” 

*2017年にAEONSで数秘を学んだ際、基礎科修了の課題で書いたレポートです
 今読むと足りないところ、浅いところがありますが、自分のマイルストーンとして残しておきます


小津安二郎 1903年12月12日 生/1963年12月12日 没 

日本を代表する映画監督の一人 

東京深川の肥料問屋の次男として生まれる。商売の道に進んでほしいという親の期待に背き、映画の道を志し、19歳の時に松竹キネマ撮影所に入社。23歳で初監督。三回の召集で軍役につきながらも戦前戦後にわたって数多くの作品を残す。 

小津監督の作品は「小津調」と呼ばれる独特のスタイルで知られ、その芸術性が時を経た今でも国内外で高く評価されている。 

今回基礎科の修了課題として小津安二郎監督を選んだのは、数秘を知る以前から小津監督が還暦の誕生日12月12日、その日に亡くなったという、その数の巡り合わせに以前から不思議なものを感じていたからなのですが、コアナンバーを算出してみてまたもや小津監督の「数字」に驚かされました。 

小津安二郎は「1 絶対」「8秩序」「9完結」の3つの数字の人でした。 

■Birth#10―1 

■Destiny#9 

■Soul#10―1 

■Personality#8 

■Realization#10―1 

■Stage#9 

■Challenge#17―8 

■Nature#17―8 

■Action#1 

この通り、Destiny#からAction#まで「1」「8」「9」しか現れません。 

これだけでも揺るぎない小津監督の生き様のようなものが見えてきます。 

Birth

誕生数。「深層意識」、生まれ持った「資質、性格、個性」に加えて「生きる姿勢や才能、その人の潜在能力」など普遍的な特質を表す 

何もないところから生まれ出た「1」は絶対性や創造を表します。小津安二郎監督は、ピュアな心と革新的で独創的なものを常に求める、開拓精神に富んだ資質をもって生まれてきました。

商家に生まれた小津監督は13歳で映画監督を志し、親の望んだ進学をせず、自分の意思を貫きました。

まだ撮影所の助手時代のエピソードにこんな話があります。

撮影が長引いて腹ぺこで食堂に飛び込んだ小津青年。席に着いた順番で給仕を受け、ようやく自分のところにその日のメニューのカレーが来るというタイミングで監督が食堂に到着し、小津青年のところへ来るはずのカレーは監督の前に運ばれました。青年は憤然と「おい!順番だぞ!」と怒鳴ったそうです。おそらく多くの人はこんな場面に遭遇したら、監督に順番を譲るのではないでしょうか?助手であろうと監督であろうと、カレーの前ではお腹をすかせた一人の人間なのだという、ピュアでシンプルな「1」ならではのエピソードです。この話を聞いた撮影所の所長が面白いやつだと思ったのか、「一本撮ってみろ」と小津青年が監督としてデビューするきっかけになったそうです。

そうして子供の頃からの夢を実現した小津監督は映画の撮り方も「小津調」と言われるように独特のスタイルを作り上げました。 

当時は映画の撮り方に、例えば会話のシーンならカメラをこう向けるといった「文法」的なものがあり、それに納得のいかない小津監督は「文法」を無視した撮り方を自分で創っていきました。また、従来のスタイルに縛られないだけではなく、新しいものに飛びつくこともしませんでした。無声映画からトーキーへ、白黒からカラーへという変化の時にも自らが納得して初めて取り入れるという風でした。

そして創られた「小津調」は若い世代の映画人からは古臭いと言われるようになります。しかし、小津監督は「永遠に通じるものこそ常に新しい」と我が道を歩むのです。実際に小津映画は監督の死後も国内海外を問わず多くの映画人から高い評価と賞賛を得ています。

こうした自分を信じてまっすぐ進む強さは「1」の強さそのものです。 

Destiny

運命数。「表面意識」、Birthナンバーで与えられた才能や個性をどう活かしていくか、「人生における使命や目的、何を実現していくべきか」

「9」は全てを内包する数字で、芸術の数でもあります。総合芸術と言われる映画は正に「9」を具現化していると言えるでしょう。絵も上手で楽器も嗜み読書家でもあった小津安二郎が生涯の道として映画を選んだのも納得です。 

その映画の目指すところも大ヒットする大衆娯楽作では無く、人間の深いところを描く芸術作品なのも「9」の求める崇高さゆえでしょう。 

Soul10

ソウル数。「魂の欲求」、根源的なレベルで望んでいること。その人の一番大事な価値観、優先したいことなどの強い内的欲求 

また「1」です。ソウルナンバーに「1」を持つ人は独立精神に富み、独創性や革新を求めます。

誕生数にも「1」を持つ小津監督は、まさに独自の映画世界を創り上げました。そのこだわりは映画だけでは無く、たとえば自身のファッションにも発揮されています。白いピケ帽に襟の大きさや形など細部にこだわって仕立てた白いシャツを愛用していました。現代の目でも見てもダンディなジェントルマンらしいファッションです。スタイリストが時代別に小津監督のファッションを分析しようとしたところ、シャツも上着もズボンも長年同じスタイルで貫かれていて、写真を見ても時系列がわからなかったといいます。 

まったく流行に左右されず、自分の良いと思ったものを貫く姿勢がそんなところにも表れています。

そして、ソウル数と言えば恋愛。 

一生独身を貫いた小津監督ですが、名女優の原節子さんと恋愛関係にあったのではないかという説があります。真相は二人にしかわかりません。恋愛については一直線になりやすい「1」の小津監督はもしかすると自分のそういったところを知っていて一線を引いていたのかもしれません。女性としての原さんと女優としての原さんとで、自分の作品に欠かせない後者を選んだように思えます。ピュアな「1」の人だからこそ、原さんとの関係を私生活と仕事とで使い分けることを断念したのかもしれません。 

私生活の幸福よりも映画を選んだという見方も出来るでしょう。ここにも小津監督に強いこだわりを感じられます 

Personality

人格数。「社会的な仮面」、気づかないうちに身につけた第一印象、他者の目に映る表面的人格 

「1」が孤高のリーダーだとすると、「8」は現実社会に根ざしたパワフルな実行力と組織力を持つリーダーです。

たった23歳で映画監督として独り立ちできたのはこの人格数「8」に負うところが大きいのでは無いでしょうか? 

戦前の日本、年功序列は今の比では無かっただろうと想像がつきます。入所して4年の若者がすんなり認められるとは思いにくいのですが、おそらく天性のリーダーとしての資質がそれを可能にしたのでしょう。 

小津監督と同じく世界的に有名な黒澤明監督は「天皇」と呼ばれるほど絶対的な権力を持つリーダーで様々な逸話がありますが、小津監督は仕事に妥協をしない点では同じでもスタッフから恐れられるといった話はあまり聞きません。黒澤監督の人格数「1」との違いなのかもしれません。 

Realization10

この人生での可能性や実現性 

またしても「1」です。どれだけ独創性を追求する人生だったかがうかがい知れます。 

芸術家の中には独自のスタイルを求めて様々なスタイルを変遷する人もいますが、小津監督は若い頃こそ多少の試行錯誤はあったものの、早い時期から「小津調」を確立しています。 

「僕はトウフ屋だからトウフしか作らない」 

これは小津監督のエッセイ集のタイトルであり、ひとに「たまには違ったスタイルの作品を撮ったらどうですか?」と言われたときに答えたということばです。この潔さ。 

30代ぐらいまでは批評家の評判は良くても、観客動員はあまり芳しくありませんでした。だからといって題材を替えたり演出を変えたりするという選択肢は小津監督には一切無いのです。 

自分の創りたいものを創る。徹頭徹尾、それが貫かれています。 

だからこそ、後年の映画監督たちに強い影響を与えられたのだと思います。 

Stage

活躍する場 

「9」です。芸術の数です。しかもすべてを内包する「9」。それとともに人類愛や博愛、理想というものを表しています。

だから総合芸術である「映画」、しかも大衆娯楽作ではなく芸術性の高い映画製作が小津安二郎という人間に一番ふさわしい場になったのです。 

小津監督の「9」らしさを表していると感じたのはエッセイにあるこんなことばです。 

「泥中の蓮を描きたい」 

戦後、世の中が大変なときに、小津監督の映画は現実の世相の不浄さと乖離しているといった指摘を受けます。それに対して「泥中の蓮…この泥も現実だ。そして蓮もやはり現実なんです、そして泥は汚いけれど蓮は美しい、だけどこの蓮もやはり根は泥中に在る……私はこの場合、泥土と蓮の根を描いて蓮を表す方法もあると思います、しかし逆にいって蓮を描いて泥土と根をしらせる方法もあると思うんです」と言っています。 <引用「僕はトウフ屋だからトウフしか作らない」小津安二郎 日本図書センター>

小津映画には醜い人が出てきません。悪人も出てきません。だから薄っぺらいかというと決してそんなことはありません。「東京物語」で戦死した夫の両親に尽くす女性(原節子)が義父に感謝されて「いいえ、わたくし、そんなおっしゃるほどのいい人間じゃありません」「わたし、ずるいんです」と心情を吐露する場面があります。戦争未亡人の苦労を直接描くわけでは無く、美しく心優しい女性にほんの少し苦悩を口に出させることで和やかな情景の後ろに深まりが広がります。

この蓮の花に小津監督自身が重なります。創造の裏側でどんなことがあったとしても、端正で美しい世界を作り出す姿勢が正に「9」の持つ完成された姿ではないでしょうか。 

Challenge17

挑戦すること、課題 

Birth#とRealization#に「1」を持つオンリーワンの小津監督ですが、映画は一人で創れるものではありません。たくさんのスタッフをまとめ上げなければなりませんし、会社の利益も無視するわけにいきません。孤高な芸術家ではいられないのです。 

「8」は実社会で組織のリーダーとしての資質を持つ数です。 

高名な映画監督の中には完璧を求めるあまりに湯水のように予算を使い果たし…というタイプの人もいますが、小津監督は芸術家の面と企業家の両面をもっていました。 

例えば小津映画には鎌倉の中産階級の家庭がよく出てきますが、その理由の1つが「鎌倉あたりの学者の中産階級の家庭なんかということになれば、ちょっと古本でもならべておけば、すぐセットが出来る。ロケも手っ取り早くできる」といった撮影費用への考慮にあったというのです。 

その一方で小道具は本物にこだわるなど、「1」の独創性や「9」の芸術性と「8」の堅実さが絶妙のバランスです。 

映画の製作でも自分一人では出来ないことは重々わかっているので、そのかわりに自分と波長の合うスタッフや役者と繰り返し仕事をすることで「1」のオリジナリティーを保ったまま組織的に動くことも可能にしていました。 

見事というほかありません。 

Nature17

自然な行動様式 

これもまた「8」です。前の項目で「課題」とされたことが実は小津監督の自然な行動様式そのものだったわけです。 

「1」の独創性と「7」の探究心あっての「8」です。組織をまとめるといっても策士なわけではなく、小津監督の独創性、映画に対する追求心が、同じ分野で働く人たちを自然と引きつけていったのではないでしょうか。 

Action

行動資質、行動パターン 

繰り返し出てくる「1」です。常に独創性を発揮し、行動力を発揮していく数字です。 

自分がこれと志したら曲げることをしないのは映画製作の現場でも貫かれていたそうです。チームを組む脚本家も撮影スタッフも俳優も小津監督の頭にあるイメージを具現化するための存在で、刺激し合ってプランを練っていく協働関係ではありませんでした。 

ただ仕事の場を離れると「1」の陽気な明るさや寛容さを発揮して、スタッフにも慕われる人柄だったといいます。 

TypeⅡから見る特質> 

Creation 5 ずばぬけた集中力深い洞察力、視覚的な才能を持つ 

Lead 5 知性的リーダーシップで刺激を与え、人を導く 

Support 1 停滞している人々に勇気を与え創造の火をともす 

Emotion  1 創造の爆発的エネルギーを持つ改革者 

これまでのリーディングと見事にはまる特質がtypeⅡにも表れています。特にSupportの1については戦後の日本で小津映画が大衆に受け入れられた事実を思うとなるほどと思わざるを得ません。 

History  

【Cycle1 ~35歳 Cycle#3 Pinnacle#6 Challenge#9】

創造性を開花させるサイクルであり、精神的成長が課題となっています。まだ年齢的に若いこの時期に関東大震災を経験し、父を亡くし、盟友を失うなどの別れを通じ多くのことを学んでいったのでは無いでしょうか 

13歳 14-14 映画監督を目指す 

19歳 14-20 上京して松竹に入社 

21歳 14-20 入隊 

23歳 15-15 初監督。完成前に予備役で招集。 

30歳 15-22 キネマ旬報3年連続年間1位 父亡くなる 

33歳 16-16 入隊 

34歳 16-17 盟友山中貞雄亡くなる 

35歳 16-18 除隊 

【Cycle2 36歳~44歳 Cycle#3 Pinnacle#7 Challenge#1】 

引き続き創造性を花開かせるサイクル。自分自身を内省し、また探求するなかで、課題は独創性の開拓です。このサイクルの期間長い時を戦地で過ごしながら、任務の1つとして敵国アメリカの映画を片っ端から見るというものがあったそうです。映画製作は進まなかったものの、自分にしか撮れない映画について深く思い巡らせた時期なのかもしれません。

37歳 16-20 「戸田家の兄妹」が初の大ヒット/第二次世界大戦開戦 

39歳 16-22 従軍 

42歳 16-25 帰国 

43歳 17-17 映画製作に復帰 

【Cycle3 45歳~53歳 Cycle#3 Pinnacle#4 Challenge#8】

引き続き、創造性の開花のサイクル。これまでは自分自身の映画を探求してきたものが確固たるものとして基盤ができあがり成熟していく時期であり、自身の映画製作だけでは無く社会的にも映画界のリーダーとして求められていきます。 

45歳 17-19 「晩春」で原節子を起用 

47歳 17-21 芸術祭大賞受賞 名監督としての評価が定まる 

48歳 17-22  鎌倉に転居 

49歳 17-23 「東京物語」  

51歳 17-25 松竹退社/文化人との交流が始まる 

【最終Cycle 54歳~ Cycle#4 Pinnacle#7 Challenge#1】

社会的な評価も固まり安定の時期です。そんな安定性の中で再びステージアップし、更に独自性を開拓していく…そんな小津作品が見られるはずだったのに60歳で亡くなったのは本当に惜しいことだと思います。 

54歳 18-19 初のカラー作品「彼岸花」 

58歳 18-23 母亡くなる/芸術院会員に選出(映画監督として初) 

60歳 癌により永眠 

リーディングを終えて

映画が好きで小津映画はおそらくすべて見ています。何も事件が起きない、淡々とした、どれもみな同じような…と退屈の要素を持っている映画なのに、何故か引きつけられて何度も見てしまう小津作品は古今東西のどの映画とも違う輝きを持っています。

小津映画の影響を受けた映画監督も大勢いますが、小津調をとりいれようとすると、どうしても「小津の真似」になってしまっています。そのシンプルだけれどあまりに強い個性はどこからくるのか…が、今回のリーディングでよくわかりました。

「1」の唯一無二、「9」の崇高さ、それを現実化していく「8」

ほかには何も無い、この3つの数字のバランスのシンプルな力強さがあの作品群を生み出したのです。

この3つの数字の中でわたしに強く訴えかけてきたのが「8」です。

初めての数秘のクラスで自分のコアナンバーを知ったときに、こんな数字が自分にあったのかと驚いたのが誕生数「8」でした。

正直なところ、情熱、積極性、現実的、自信、大胆、支配力、実行力、野心、信頼…と並んだ言葉に怖じ気づく自分がいました。

同じように複数の「8」を持つ小津監督ですが、「1」と「9」のパワーの前に「ああ、この人は常人じゃないな」と自分とは別世界の人として線を引く感覚がありました。小津監督のように人から信頼されて先頭に立つなんて常人の私には…という気持ちです。

ところがリーディングするうち、素晴らしいリーダーであった小津監督は組織を作りたい、チームを支配したいという思いで「8」の特質を使ってはいないことに気づいていきました。「自分の映画を創りたい」という気持ちと行動に周りの人がついていってチームになっていただけのことなのです。

「自分の誕生数は8なのだから組織を率いて成功しなくちゃおかしいのだ」

クラスの初日以来、そんな縛りが心の中に生まれていたのが、すっと消えました。誕生数、コアナンバーというのはそんなものではなく、本来の自分を発揮していれば「自然とそうなる」というものなのではないでしょうか。そのためには余分な思い込みを手放して、よりピュアな自分に戻ること。

自分に正直に己の魂の求めるものを創造し続けた小津監督にそう教えられた気がします。

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