
たいせつにすること
何年ぶりでしょう。顔が変わるほど泣いたのは。
昨日、共に若石リフレクソロジーを学んだ友人のご主人から訃報が届きました。
最初はメールを読んでも何が何だかさっぱりわかりませんでした。
読み返して読み返してやっと文章の意味はわかりましたが、理解できませんでした。
わたしのたいせつなともだちが亡くなりました。
とても明るい人でした。
2月にあったときにも元気いっぱいでケラケラ笑っていました。
「またね!」と行って手を振って別れたのが最後だなんて。
わたしには無いものをたくさん持っている人でした。
わたしが小さな事で躓きそうになっていると「なーに、それ。江原さんならなんにも心配ないじゃない!」と笑ってくれる人でした。
実技の練習で「江原さんの小腸(の反射区)、長すぎる。損した気分!」と言いながら揉んでいたのを思い出します。
「江原さんの(手技)は気持ちいいから、(ペアになると)ラッキー!」と言ってくれていました。
彼女の「心配ない」「だいじょうぶ」ということばのプレゼントの積み重ねのおかげでサロンが開けたようなものです。
今年はなんという年なのでしょう。
今日の続きに同じような明日があるというのは当たり前の事じゃなく、奇蹟のようなもの。
今、こうしてわたしがここにいることだって同じ。
明日、というより次の瞬間に何が起こっても不思議じゃないのです。
だとしたら、自分の一瞬一瞬をどう生きよう?
何をたいせつにして生きよう?
何かを恐れている暇なんてありません。
何かを憎んだりしている暇もありません。
出会ってからは数ヶ月のおつきあいでしたが、彼女がわたしに残してくれたもの全部が宝物です。
それをわたし一人のものにしないこと。わたしも同じようにほかの人に手渡していけるようになること。そうしてこれからの一瞬一瞬を生きていくね。
ありがとう。ゆみこさん。また、そちらで会おうね。
小腸長いけど、揉んでね。
